Wノリコです

公開日:  最終更新日:2014/08/31

ご存知の通り、私の本名は田中紀子です。

このキラキラネーム全盛の時代には、
ノリコという名前を付けることは殆どないかと思いますが、
私が生まれた頃、ノリコはかなりメジャーな名前でした
ノリコさんって、なんとなくイメージ的に強い女性が多いですよね
有名人の、ノリコさんのせいでしょうか
松田聖子ちゃんの本名も、ノリコさんだし、
若貴のお母さんであるおかみさんも、ノリコさん。
そして何かと話題のノリピーちゃんも、もちろんノリコさん。
なんか濃い~ですね
さて、今日はですね、8/3のフォーラムのことを考えていて、
「やばい司会決めてなかった~」と思ったんです
普段自分で司会をしちゃうことが多いので、
最近までそのことに考えが及ばず、
先日ふと「設立フォーラムちゃんと司会立てた方が良いよなぁ
と思ったんですが、また忙しさに取り紛れて忘れちゃってました
で、「そうだ、小学校の友達に電話してみよう」と思ったのが、
この同級生のノリコさんだったんです。
この友人、小学校の時の大親友でした。
本当に常に一緒に遊んでいて、勉強の出来とかも、
お互い同じくらいで、お互いの親兄弟とも仲良しで、
何もかも知りつくしているような間柄でした
ちなみに常々公言していますが、
私、福島銘菓「ままどーる」が、この世で一番好きなお土産菓子ですが、
それは、この友人の田舎が福島県で、
お土産に頂いた時に、あまりの美味しさに衝撃を受け、
それ以来、友人の想い出と共にずっとずっと大好きなんです
で、この友人、今ではずっと疎遠なんですが、年賀状だけはやり取りしていて、
3,4年に1回、電話で話したりするくらいの仲なんですね。
でも、ブライダルとかの司会業をやっていたので、
8/3の司会お願いできないかなぁと思い付いたんです
友人は、久々の電話に喜んでくれて、
まずはお互い近況を話しあいました。
そしたらなんと彼女、今ではそういう司会希望のタレントさんを集めて、
ブライダル等に派遣する会社の社長さんになっていました
すご~い
おまけにアナウンス学校の先生もしているんだそうです
なんというカッコよさ
で、彼女は殆どUPしませんが、お互いFBは繋がっているので、
友人も私のことは知っていて、
「沙羅もすごいよね~、大活躍じゃない」と言ってくれました
「活躍ってほどでもないけど、飛び回っているよ~」
ってな話を私もしました
そこで8/3の司会を、ほぼボランティアでお願いできないかと聞いてみると、
自分は既に予定が入ってしまっているけど、
誰か探してみると請け合ってくれました
感謝、感謝です
そして、彼女は意外なことを語り出したんです
「私ね、母とよくね、今の私があるのは、沙羅のお陰って話すのよ
あの頃から、沙羅は明るくて、元気で、すごくパワーがあった
いつも、いつも、ぽや~んとしてる私をグイグイ引っ張ってくれた。
だから今の活躍を見てるとね、あぁやっぱりなって思うの。
こうなる人だって思ってた。
だから、私にできることなら、沙羅の力になってあげたい。」
って言うんです
「みんなにWノリコって言われて、沙羅にホント助けて貰った」って。
私は、友人のこの言葉がすごく意外でした
そうかなぁ、引っ張った覚えなんぞまるでないが・・・
と思いましたが、小学校の頃クラスのリーダー格ではありました
でも、友人もハキハキしてたので、
友人の目にそんな風に写っていたとは思ってもみませんでした
私は逆に、友人の家のあったかい雰囲気、
家族みんながとても仲良しで、
お互いが労わり、尊敬し、優しさが溢れているそんな日常が大好きで、
お家にいくといつも癒され、
しょっちゅう晩御飯までご馳走になっていました
友人のお父さん、お母さん、妹さん、
当時ではまだ珍しい、母子家庭の子供だった私を、
偏見なく可愛がってくれました
沢山の想い出があります
友人は、大きな病気を生まれつき持っていました
それは見た目にも分かりましたけど、元気なので、
私は、勝手に大したことないんだろうと思っていました
ところが、中学2年生になるとすぐ、
このまま大人になると、なんだかとても良くないとかで、
神戸の方にこの病気の名医を見つけたので、
そこで入院治療しながら、なんと1年間過ごすというのです。
その病院には、同じ病気にかかった子供達が沢山いて、
そこには学校も併設されているというのです
子供だった私には、神戸というのは、
ものすごく遠い遠い地に感じました
話を聞いてびっくりしました
でも、中2になって学校も家庭も何もかも嫌になり、
つっぱらかっていた私は、
優しくて、相変わらず優等生な友人とは、疎遠になりつつあって
その話を聞き付けた母に「ショック」と聞かれ、
「うるせ~、なんであたしがショック受けるんだよ」と、
怒鳴りちらしてしまいました
そして、ろくにお別れの挨拶もしないまま、
彼女は神戸へと転校してしまいました
夏休みのある日、友人のお母さんから
「沙羅ちゃん、お見舞いに行ってくれない
と言われ、その時は素直に「はい」と答え、
おばさんと一緒に、二人で神戸までお見舞いに行きました。
その時、おばさんと何を話したのか、殆ど覚えていませんが、
すっかり不良っぽくなっていた私に対して、
おばさんは相変わらず優しく接してくれました
病院につくと、彼女は手術の後で、
ベッドに頭と足をがっちり固定され、
全く動けない状態でした
その様子に、私はすごくびっくりしましたが、
彼女は「わぁ~来てくれたの~」と満面の笑顔でした
今思うと、あの状態で固定されて、
自分で寝返りも打てないというという暮らしは、
どれほど辛く大変だったかと思いますが、
子供だった私は、そういう彼女の苦労には思い至らず
「こんなに大変な病気だったの」と、それがショックでした
彼女は、そんな大変な状況の中でも、
相変わらず明るく、愚痴や泣きごとを言わない人でした
でも、私が来たことには、涙を流して喜んでくれました
帰る時、ふとガラス越しに彼女のベットを振り返りました
おばさんが「あぁやってね、鏡に写して、帰る姿を見送っているのよ」
といった時に泣きそうでした
その時の光景が今も焼き付いています
今になってみると、彼女のお母さんも、
きっと胸が張り裂けそうな位、切なかっただろうなと思いますが、
あの日おばさんは、神戸まで来た中2の私に
「今日は有難うね~」とずっとお礼を言っていました
私は、彼女が大変だった時に、たった1回しかお見舞いにも行かず、
転校の時も、戻って来た時も、殆ど関わりを持った記憶がありません
真面目な彼女と、つきあえなくなっていました
彼女が私のことを
「なんだか雰囲気がすごく変わっちゃった」と漏らしていたことを
風の噂に聞きました
そして、そんな自分をずっと恥じていました
親友が、人生の一大事の時に、知らんぷりしつづけた自分に対し、
後悔と、罪悪感と、恥の感情を持っていました
だから彼女が私に、今でも良いイメージを持ってくれていることに、
すごく感謝し、有難かったし、何よりも意外でした
でも、話しているうちにやがてその謎が解けました
彼女はこう言ったのです
「私、人にねノリコさんだからできるのよって言われるの。
でもね、私は頭で考えてるんじゃなくてね、
ただ、大きな力に導かれるままに生きてきただけなの」と。
あぁ、そうでした
彼女は、幼いころから、プログラムを生きているような人でした
生まれつき大きな病気を抱え、
見た目にもすごく華奢だった彼女
今では3人のお嬢さんのお母さんです
私は、今も昔もどんな時も、どんな苦難があっても、
幸せそうな彼女に、
すごくすごく癒され、助けられています
あの頃、優しくできなくてごめんね
もっともっとお見舞いにも行ってあげたかった
お手紙も書けばよかった
ほんと、ごめんね
でも、今日は嬉しかった
ありがとう

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