私の介護経験です

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小室哲哉さんが介護引退しましたが、
今日は仲間と介護の話しになり、
すっかり忘れていた自分の経験を思い出したので、そのことを書いてみます。

実はこの私、全くキャラじゃないと思われると思いますが、
がっつり介護経験があります。
最初のデパート勤めをやめてから、次の東大医局秘書になるまでの
およそ3年弱、なんとこの私にも専業主婦時代があるのです。
そこが私の介護時代でした。

今からおよそ30年前の出来事ですから、
今とは全く社会制度が違います。
介護保険制度もないし、ヘルパーさんなんて聞いたこともありませんでした。
でも、あの頃はまだギリギリ一般病院で長期入院をさせてくれました。

祖母が入院していた病院は、ボロボロの総合病院で、
看護婦さんとか病院の姿勢は、貧乏人に配慮してくれましたけど、
一応完全看護と言いながらも、
ほぼ強制的に、家族の付添いを依頼して来ました。
でも我が家としては入院させてくれるだけで有難いと思っていたので、
病院の依頼には答えるしかありませんでした。

入院していたのは私の祖母で、入院当時81歳。
糖尿病から、腎臓病になり週3回の人工透析中でした。

もともと心臓の持病もあり、透析を始める時も、
あとは死を待つばかりという感じだったのですが、
やらなきゃ1週間で死ぬと言われ、
それも忍びないってことで、透析を決意し、一時は退院できるほどよくなりましたが、
すぐにまた入院となりました。
「いよいよこれで最後か・・・」とこの時、家族の誰しもが思いました。

ところが祖母はそこからなんと3年弱に渡って、
入退院を繰り返し、生き伸びたのです。
まさか私も、これほど長くかかるとは、
これっぽっちも思っていませんでした。

貧乏な我が家のことですから、死んでも遺産の一つも残してくれるわけでもなく、
叔父叔母の全員が、この時介護役を逃げました。
あとはうちの母がやるしかないですが、
母はそんなことをしていたら食べていけません。

仕方なく、孫であり結婚していた私が、
華やかなOL時代に区切りをつけ、介護を引き受けたのです。
叔父や叔母のホッとした顔。
「そうそう、あんたが一番かわいがられたんだからね~」と、
まるで私が引き受けることが当然のような言いぶりには笑いました。
私はこの後、叔父叔母など親類連中とは縁を切っています。

祖母は、次第に手足が壊死し、舌には見たことのないでっかい口内炎が、
潰瘍のように舌全体に出来ていて、
あっちもこっちも痛い痛いと苦しみ抜きました。
口の中を湿らせるために吸入をしてやったり、
足をさすれだ、手をさすれだ、痛さのあまり祖母は我儘三昧でした。

入れ歯を洗ってやったり、下の世話をしたりと汚いことこの上なく、
ついきのうまでワンレンボディコンで遊びまくっていた私には、
この生活は地獄だと思いました。
しかも祖母は最後の最後までボケる事なく、正気を保ったままなのです。

私がそばに居ないと不機嫌になり、時々私が叔父叔母いとこを恐喝し、
介護にあたらせるのですが、やる気のない奴らの介護にいらだち、
祖母は私じゃないと満足しないのです。

最後の1年ほどは、ほぼ毎日病院に泊りこみになりました。
死にそうで、なかなか死なない祖母。
「痛い、痛い!なんでこんなに痛いのにすぐ来ないんだ!」
毎日毎日、悪態の限りでした。

しかし今でも不思議なんですが、なんであの頃の私はあんなに祖母に尽くしてやったのか?
別にそんなに好きでもなかったし、確かに世話にはなったけど、所詮私は孫であり、
あの頃バブルで超大金持ちだった、証券会社重役の叔父らがいたんですよね。
当時20代の若さで、逃げても良かったのに、なんで逃げなかったのか?
実に不思議です。

しかも私はあの頃、祖母に優しい気持ちなんて1ミリもなかったんですよね。
「いい加減、死んでくれ!」毎日そう願っていました。
舌の皮がめくれ、ものも食べられず、子供らから見捨てられ、
ろくに見舞いにも来てもらえない貧乏人の祖母。
哀れな人だと思いながら
「人ってなかなか死ねないんだなぁ・・・」と思ったことを、
今でもまざまざと覚えています。

祖母の介護で唯一の明るい思い出は、
1日だけものすごく綺麗な虹がかかった日があったんです。
私は祖母を車いすに乗せ、その虹を屋上で見せてやりました。
祖母は別に何も言わなかったような?その時の祖母の様子は忘れましたが、
私は「早くこの生活から解放されたい~!」と、やけにすがすがしく思いました。

別れは突然やってきて、その時たまたま私はおらず、
証券会社の金持ちの叔父が、偶然看取りました。

葬式になると叔父はがぜん張り切りだし、葬儀を仕切り、
貧乏人だった祖母に不釣り合いな、豪勢な葬儀を出しました。
証券会社、その取引先、もう一人の叔父も金持ちの婿養子だったので、
地元の名士、銀行などなど、お寺の入り口から出口までずら~~~~っと花輪が並びました。

叔父叔母は、誰も私をねぎらう事なく、葬儀という一大イベントに浮かれていました。
叔父は、手伝いに駆けつけた、多くの部下にかしずかれ、実に楽しそうでした。
最後は、神妙な面持ちで、喪主として母を看取った美談を涙声で語り挨拶しました。
そして「一番いい戒名を100万でつけてやった」と、私に誇らしげに教えてくれました。

この叔父はその後、バブルがはじけ、無一文どころか、借金が3億にもなり、
自殺未遂をし、結局失意のまま亡くなりました。

祖母の葬儀というすべての茶番が終わった時、私は一人車を運転しながら、
帰路に付いていました。
「あ~、やれやれ疲れた~。やっと終わったわ。」
と、もうすぐ自宅という最後の交差点で、
何故か突然、涙が滂沱と流れ、自分でも信じられないくらい、
車の中で大声で号泣しました。

自分でも全く分からない感情でしたが、
とにかく泣けるので、泣くだけ泣きました。
いやむしろ感情は「無」だった気がします。

「孫に世話されて幸せよね~」
当時、多くの人に言われました。

病院で会う、赤の他人の家族の方がよっぽど私をねぎらってくれました。
「若いのに、偉いわね~。」
時々、どっかのご家族と愚痴を言い合ったりしました。

でも、どれもこれも何もかも当時の私にはあてはまらない気がします。
あの頃の私はただ単に「乗り掛かった船」
と、そんな気でいたような気がします。
まさかあんなに長くなるとも思わなかったし、
使命感も義務感も、ましてや優しさや祖母に対する感謝の気持ちなんて、
これっぽっちもなかったです。

でも今の私には、あの頃の私が、どれだけすげ~奴か分かります。
感情なんか伴わなくとも、心で何を思っていたとしても、
ガリガリにやせた身体を、拭いてやった毎日。
実際に、吐きそうになりながら、下の世話をし、入れ歯の手入れをしてやったその事実。

だから私は祖母の介護には1ミリも後悔はありません。
特に優しくもしなかったけど、淡々とやれるだけのことはやった!
祖母が感謝してようがいるまいが、
一度も親族にねぎらわれず、おまけに死を看取ることもなかったけど、
あの頃の私には、もう今の私はなれないと思います。

何故あそこまでやれたのか?
今も当時の気持ちは全く分からないです。
でも、「美談だけには、絶対誰にもして欲しくない!」
当時からこの気持は根強く持っていて、
ブログを書きながら、
「あぁだから私この話あんまり人にしなかったんだなぁ」と思いました。

理不尽で、割り切れなくって、仕方のない事は人生において沢山ある!
多分私は、そこに美談の落とし所をつけたり、
納得させたり、なぐさめようとすることが
昔から嫌いなのだと思います。

そして何にもしなかった奴らに、お前らの罪悪感を、
孫の美談なんかでオチをつけさせてたまるか!
と思っています。

「おばあちゃんきっと喜んでますよ。」
そんな風に、自分の頑張りを絶対に言われたくないんです。

あたしゃ、誰にも感謝されず、誰にも褒められることのない、
介護という報われないことを、淡々と受け入れやり遂げた。
その事実を胸にしまっときたかったんです。

でも30年たったから、自分だけは自分に言ってやるかなぁと思います。
「よくやったよ!あんたはマジすげ~やつだって!」
20代の私の考えたことは、50代になっても分からないです。
でも客観的に50代の私は、20代の私が信じられない位よくやった奴だと思います。

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