再び始めなさい・・・です

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先日、グレイスロードに行った際に、
こんな張り紙があって、感動したのでデータを送って貰いました。

出典は聞き忘れてしまいましたが
「再び始めなさい」というタイトルで、
こんなことが書かれているんです。

   ~☆~☆~☆~

「再び始めなさい」

たとえ、あなたが疲れきったとしても

たとえ、成功を失ったとしても

たとえ、失敗によって傷ついたとしても

たとえ、しようとする事に挫折したとしても

たとえ、裏切られて傷ついたとしても

たとえ、希望が消えたとしても

たとえ、痛みで苦しんだとしても

たとえ、努力したことが誰にも知られなくて報われなかったとしても

たとえ、怒りや恨みを受けたとしても

たとえ、無理解に苦しんだとしても

たとえ、手を貸してくれる友が見つからなかったとしても

たとえ、全てが虚しく思われたとしても

君は、再び始めなさい!

    ~☆~☆~☆~

というものなのです。
すごく核心をついた良い言葉だなぁと思いました。

世界には、私のような社会活動をしている人って、
沢山いると思いますが、そんな人たちは常にこんな想いを
抱えて進んでいるんじゃないですかね。

良いことだとは思っても、他でやってくれと言われたり、
どうせ金目当てなんだろうと思われたり、
なんか裏に意図があるんじゃないか?なんて疑われたり、
そういう嫌な思いなんて、腐るほどあると思います。

先日も、アゴラに子供の貧困問題に取り組む、
駒崎弘樹さんが、こんなブログを寄せていて、
http://agora-web.jp/archives/1661524.html
「へぇ~、こんな有名な活動家になっても、
まだこんな風に言われるんだ!」とびっくりしました。

「あの~、儲けたいだけなら、こんなことしてないですけど・・・」
ってのが社会活動家の本音じゃないでしょうか?
私も、儲けたいだけなら夫の会社でも手伝いますよ、本当に。
あとは普通にOLやっても、今よりはずっとお金が残りますよね。

それでも、皆、あきらめずにその活動をしていくのは
一体何故なんでしょうか?
人を突き動かす原動力って何なんだろうって、
良く考えることがあります。

あのマザーテレサですら、こんな名言を残しているということは、
「こんな想いをかつてしていた」ということだと思うんですね。
私は、この言葉をいつも励みにしているんですけど、

「人はしばしば不合理で、非論理的で、自己中心的です。
それでも許しなさい。

人にやさしくすると、人はあなたに何か隠された動機があるはずだ、と非難するかもしれません。
それでも人にやさしくしなさい。

成功をすると、不実な友と、本当の敵を得てしまうことでしょう。
それでも成功しなさい。

正直で誠実であれば、人はあなたをだますかもしれません。
それでも正直に誠実でいなさい。

歳月を費やして作り上げたものが、一晩で壊されてしまうことになるかもしれません。
それでも作り続けなさい。

心を穏やかにし幸福を見つけると、妬まれるかもしれません。
それでも幸福でいなさい。

今日善い行いをしても、次の日には忘れられるでしょう。
それでも善を行いを続けなさい。

持っている一番いいものを分け与えても、
決して十分ではないでしょう。
それでも一番いいものを分け与えなさい。」

というもので、皆さんも一度は目にされたことがあるかと思います。

これ、私しょっちゅう味わう気持ちです。
なんせ理解されない依存症という病気にあって、
理解されないキャラクターの私。
いえ、私だけじゃなく社会活動に情熱を注ごう!
なんて変わりモノは、そもそも理解されないんだと思います。

一生懸命相談に載ったり、プログラムを伝えたりすると
「この人なんでこんなに一生懸命になってくれるんだろう?
おかしい・・・裏があるはずだ。」と思われたりするらしいです。

必死になって、助けたとしても、のど元過ぎればで、
その後はしらんぷりってのは全然構わないんですが、
何故か突然攻撃を加えてくる人がいて、
「えぇ~、かつてお宅の家族の再生に全力を注いだのに!?
しかも無事再生したのに、何故!?」なんてこともあります。

でも、不思議には思いますけど、
「まっ、仕方ないな」とさっさと切り替えて、
それでもやり続ける・・・
「再び始める」んですよね。

何でですかね?
もちろん使命感もありますよね。
それとやってるうちに色んな人たちを巻き込んで行くので、
やめるにやめられなくなるとか、
そういう現実的な話もあるかもしれません。

う~ん、でもなぁ、なんか違う気がするし、
なんだろう・・・・・
って考えていくと結局

「この問題を考えることが面白いから」
「この問題に関わっていくことが楽しいから」
「この問題に直面している人たちが好きだから」

という非常に原始的な感情に行きつくんじゃないかなぁ
って思うんですよね。

なんて言うんだろう、辛くて、うんざりして、誤解されて傷ついて、
殆どのことが報われなくて、しょっちゅう事態がとん挫して、
疲れきって、挫折して、「もう嫌だぁ~」と愚痴っても、
たった一人の人が「手を貸すよ」とか、
たった一人の人が「ありがとう!助かったよ」とか、
たった一人の人が「どうか実現して!応援します」
なんて言ってくれると、あっという間に、
その嫌な霧が晴れて、やってて良かったぁ~って、
思えちゃうんだと思うんですよね。

マザーテレサはこんな風にも言ってます。

「この一人を助けなかったら、今まで助けた四万二千人の人をも
助けることはできなかったでしょう。
このような仕事はすべて大海の中の一滴に過ぎないものです。
でも、この一滴を注がなくては、海の水は一滴分減るのです。
さあ、始めましょう・・・ひとつずつ、ひとつずつ。」

「わたしは一般大衆を責任の対象と見なしたことは一度もありません。
わたしは個人を相手にします。わたしは同時に一人しか愛せません。
同時に一人にしか食べさせることはできないのです。
対象はつねにひとりなのです。」

おこがましいけど、なんか分かるなぁって思うんですね。
つまり社会活動家って結果として、
その問題をいっぱい扱ったり、関わったりしたから、
その問題のボリュームゾーンが見えてるだけで、
でも自分を突き動かす原動力は、
「今、目の前にある一つの問題」なんですよね。

で、その一つ一つの問題をクリアすることが、
とっても面白い。
なんで面白いかって言うと、簡単じゃないから。

人生って結局、困難や苦しみや悲しみ傷つきがあるから、
喜びや楽しみ、幸せや愛情を感じられるんだよねって思います。

その二つを比較して、
喜びや楽しみ、幸せや愛情の方が多く感じられるなら、
その活動を続けられるんじゃないかなぁと思います。

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